語り手:小地沢将之さん/進行・聞き手:佐藤正実さん(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)
■汚泥掻き作業のあと
[小地沢(以下、小)]3月11日当時は半分仙台市民、半分は山形県酒田市民だったという、非常に曖昧な生活をしていました。妻の妊娠が発覚して9日目という、まだ非常に私自身が不安な日だったので、できるかぎり仙台にいながら酒田と行ったり来たりしており、3月11日当日は酒田に戻って研究室のパソコンを開いてメールチェックをしたときに、大きな地震がありました。2日前にも大きな地震を経験していたけれども、酒田であってもそれとは比べ物にならない揺れだったんです。これはもう仙台は大変なことになったと直感的に思って、学生の安否確認などを終えると、仙台に急いで向かいました。仙台も雪が舞う中で、庄内地方も全く同じような気候でした。不安な中、仙台に夜のうちに戻ってくることができ、ただその段階ではまだ妻の実家の安否が確認できないような状況だったんです。
というのも、まさに最初の写真見ていただくと分かるんですけれども、妻の実家は仙台市内なんですが仙台東部道路の海側500メートルくらい入ったところで、どうも、そこも津波が来たらしいが、詳しいことはよく分からないと。よく分からないまま不安な朝を迎え、仙台中心部から海沿いまで車で2時間かかりました。それほど街中が混乱していた記憶があります。辿りついて、2枚目か3枚目に撮った写真がこれです。この後、実は数千枚写真を撮っているんですけれども、3月12日の頃というのは、人にカメラを向けるという感じではなかったです。自分の家族たちが被災していて、家族であってもカメラを向けるのはちょっと違うな、と思いながら撮った1枚がこれです。家族が泥かきをある程度やっていて、だけれども残された仕事も一杯あって、家具も倒れているしそれも直さないといけない、というような混乱の中の1枚でした。
[佐藤さん(以下、佐)]小地沢さんには震災から半年後に、『「3.11キヲクのキロク」市民が撮った3.11大震災 記憶の記録(註)』を出したときにも、お話を伺ったことがあったんですけど、その時と全く同じ説明されるんですね。記憶が風化してないんだなって思って。時間がないので途中、はしょっている感じはありますけど、本当に同じことを聞いたなと今思って感心して聞いてました。
[小]やっぱり子どもが産まれることが分かったという特別な状況の中での出来事なので、記憶に残りやすかったというのはあるのかも知れません。自分が酒田に居てしまったということを、最初の1年ぐらいはものすごく負い目に感じていて。私は、生まれ仙台なんですが、1歳から9歳まで岩手県にいたので、宮城県沖地震も経験してないし、今回の震災も、本震も前震も経験してない。なんとなく、まちづくりをやる人間として、当事者として説明しないと行けない部分があるはずなんだけれども、家族は大きく被災している中でも、直接的に揺られていないという負い目が、なんとなく、より多くの情報を集めないと、というところに走らせたような感じはあります。
註:NPO法人20世紀アーカイブ仙台が発行した書籍。約150名の市民から提供された写真18,000枚の写真と提供者の震災体験談が綴られている。
■個人商店はいち早く開店し商品を提供
2011年3月17日 仙台市若林区
|展示「3月12日はじまりのごはん」で利用しました|
[小]数日間は妻の実家に通いながら、泥かきをする、倒れた家具を直すというようなことをやっていました。多分福島第一原発が爆発したその日だったか、来なくていいと言われて行かなかった日以外は泥まみれになりながら泥かきをしていました。かろうじて妻の実家も、多少津波が来たものの普通の生活ができるような状況にあったと。農家なので発電機もあって、軽油もあって、燃料を使えばいくらでも電気は起こせるという環境にあったので、その恩恵にもあずかりながら毎日通っていました。
一方で、街なかの生活に戻ると、食べるものがどんどん尽きていくという、過酷な最初の2〜3週間が皆さんにもあったと思うんですけれども、その中で、通りすがりの道で撮った1枚がこの写真です。皆が食料を求めているような中で、お店をやっている人であっても、自分の家族が何よりも大事なはずなんだけれども、人のために仕事をするという段階に来ているというのが凄いなと思えた部分があります。
[佐]小地沢さんは酒田から仙台に戻ってきて、それからしばらくは仙台に滞在ですか?
[小]片道のガソリンしか残ってないけれども、暫く帰って来れない覚悟で3月23日に酒田に向かうという日がこの後あります。
[佐]この写真って、個人商店がいち早く再開しているっていう、それを知ることができる写真だと思うんですけど、私はいつもこの写真をお見せするときにはコンビニの写真を対比させてご覧いただくことが多いんです。やっぱり24時間365日開いていると言われるコンビニが閉まっていて、なかなか普段買い物しない、早く閉めたりしている、そういった個人商店が実はこういう時に役に立つというか、いち早く開けてくれて市民の食べ物を提供してくれる。そういった一番生活に密接な食べ物というものをこういった中で、個人商店が再開したのもそうですけど、それを写真を撮ったっていうのも、そこは何なんだろうなと思うときはあるんですけどね。
[小]なるほど。そこまでの深い考え方をしないまま、お店が開いてる、っていう、まずは驚きで撮った1枚であったんです。でも、佐藤さんの仰るように、その後いくら街中歩いても、チェーン店はまだ開いてないし、開いているとしてももの凄い行列に並ばないと買えない、というのを2週間後くらいまでは我々は経験していた訳ですよね。それに比べると、機動力といいますか、やっぱり地べたでできることがあるのかな、というのが、それは仰る通りですね。
■仙台市内中心部アーケードの様子
[小]大学に戻れないということも、実はある部分で負い目になっていて、仙台に留まるという判断で良いかどうかというのを悩みながら、ただ、仙台に居ながらできることがあるんじゃないかという議論を、3月16日あたりから大学の教員たちとメール会議をするようになりました。
当時予想されていたのは2つくらいあって、1つは大学が被災地のために何かできることはないだろうか、ということ。もう1つは被災地から山形県内、庄内地方に避難する人たちが相当数出るんじゃないか、ということが現実的になり始めていました。次の写真とも関係してくるんですけれども、仙台市役所に相談に行ったんですね。何か連携してできることはないだろうかと。相談しに行ったときに、そのついでに街に出てみたところ、私がずっと家にこもって津波の泥と向き合っての繰り返しをしていた姿では全く予想していなかったのが、アーケード街に賑わいがあるという状況だったんです。もの凄い数の人が歩いていて、お店はほとんど閉まっている中、地元のお店が積極的にそこに机を出し、炊きだしてみそ汁を提供する、おにぎりを提供するということを、震災から1週間経ってもまだやっている。それがなんとなく街の安心感になっている、そんな様子を、まだ街って元気なんだ、大丈夫なんだと感じた一瞬です。
これと対極にある姿ももう1つ見ていて、ある弁当屋さんが牛タン弁当を千円で売っていたっていう姿もあって、それも写真に撮ってみたんですけども、ここまでがめつく商売できるんだったらこの街は大丈夫だなと思った瞬間も同時にありました。アーケード街のお店は臨時休業が殆ど、とても開けられるような状況になかったようですね。だけれども、人がいっぱい歩いている姿のコントラストが印象的でした。
■仙台市役所1階に貼り出された新聞
[小]これがまさに先ほどお話した、仙台市役所に相談事に行ったときの写真です。市役所の中も相当混乱していまして、私が相談に行った部署が正に、各避難所の運営をマネジメントしている部署でしたので、職員さんみんな何晩も寝ずに過ごしているというような過酷な状況を目の当たりにしました。同じように8階のホールも避難所として開放されていて、多くの人が寝泊まりしているという様子があったのがこの3月18日です。私たちにとってやはり、電気が通じない暫くの間、ラジオがものすごく重要な情報源だといわれていた訳ですけれども、私にとっては新聞もものすごくインパクトを与えてくれたツールです。震災の夜、電気も情報もない中、不安な夜を過ごし、そのまま夜明けを迎えてポストを覗いてみると、新聞が届いている訳ですよ、3月12日に。これはすごいと本当に心から感動しました。誰がこんなことができるんだと。皆被災したはずなのに、こうやって情報が届くっていうのはもの凄いことだと思った。やはり、文字に残る、ラジオとかテレビのように聞き逃してしまわない、残っているのでじっくり時間をかけて読むことができるメディアというのが、どこに行ってもこうやって掲示されていて、とても重要な情報源になっていたんだなと感じた1枚です。
[佐]市役所に新聞を貼っていたというのは、小地沢さんの写真を見るまで知らなくて。藤崎の角には新聞が掲示されてあって、それを見ている人が沢山いる、その写真は見たことあったんだけど、そうか市役所もこうだったんだな、というのが初めて小地沢さんの写真を見て知りました。
[小]そこにいらっしゃる市民の皆さんも、8階で寝泊まりしている方も恐らく含まれているでしょうから、皆さんどんな生活をされてこういう情報を求められているかというのも、何とも一言では想像できないところもあるんですけども、ただ、皆さんにとって情報は非常に重要なんだなと。妻の実家自体がやはり、荒浜の新聞店から新聞が届いていたので、新聞店ごと流されていて、2〜3週間新聞が届かないという状況が続いていたんですね。被災したエリアだと、活字メディアがないまま震災後の時が過ぎていった、そういう状況もあったので、新聞という存在が私にとっては大きかったというのはあります。
■震災後2週間で復活した「ゆりあげ港朝市」(イオンモール名取)
[小]これはイオンモール名取です。ゴールデンウィークの期間中、買い出しも兼ねて、あとは街の様子を少し見てみたいと、少し遠出できるような気持ちになってきたので足を運んでみると、駐車場で古着を被災したみなさんに提供するようなイベントを行っていました。結構多くの段ボール箱がそこにあったので、ものすごい数が全国から届いていたのかもしれないです。閖上の皆さんが、被災から、2カ月近く経って、どういう生活をしていたのかというのはあまり想像できない中で撮った1枚だったんですけれども、こういう大型ショッピングセンターが、人が集まる場所、何かあったときに、単なる商業の空間ではない姿があり得るんだ、と思った瞬間ですね。近くではステージイベントがあって、ミュージシャンが被災者の心を慰めるために演奏していたりという、これが商業なのか心からのボランティア精神なのか、それは見ていても判断が付かなかった部分があったんですけれども、ただ、単なる商業空間が別の形で機能していた姿があったというのは、これはきちんと、今後に生かすという言い方はあまり適切ではないと思うんですけれども、記録には残っていかないといけない一瞬だなと思いました。
[佐]先ほど、小地沢さん、震災を体験していない負い目があるという風に仰ってましたけども、そういったものだけじゃなくて、まちづくりという職業というか、そういう発想というのが、多分こういったものの写真を撮っておこうというものに繋がっているのかもしれないですね。
[小]出かけるときにはカメラを持ち歩くというのが習慣になって、今日もその時のカメラを持ち歩いてます。重いので持ち歩かなくて済むのであれば持ち歩きたくないんですが、何かあるかもしれない、そこで発見があったときに、誰かに伝えるためのツールとしてやはりこういうのは最も便利なので。これも妻と一緒に買い物に行ったのですが、ちょっと待って、と妻の足を止めさせて、写真を何枚か撮って、じゃあ行こうかと動き出した記憶があります。
■塩釜市の被災状況
[小]佐藤さんがなんでこの1枚を選ばれたかっていうのが、私が何かお話したのを覚えてらっしゃったかどうか、そこが気になった1枚なんですけれども。3月24日は酒田の大学に行って、1泊だけして戻ってきたと。幸い酒田に行く途中でガソリンを入れられる場所があって、無事1泊で帰ってくることができました。それまでは妻の実家の周りでさえも踏み入れることって不安だったんですね。多くの方が徒歩数分のところで亡くなられている。どんな状況か、見るのも正直乗り気ではなかった。乗り気ではなかったんだけれども、酒田で非常に嫌な思いをしたというのが正直なところなんです。大学の同僚たちと話しても、どうも震災に関して感じているものがまるっきり違う。危機感が全くないというか、のんびり構えていれば、何かお手伝いすることが降ってくるんじゃないの、みたいな感覚で、学生も教員ものんびり待っていると。これはまずいと思い、正しい情報を持ちかえらないと何も始まらないと思い、沿岸部を半日かけて歩いたのが3月24日です。
仙台市内からスタートして、産業道路をずっと多賀城・塩釜方面に向かっていき、ようやく、最初に車を降りて写真を撮ったのがここなのかな。私、ものすごく衝撃を受けた1枚というか、この塩釜での印象がもの凄く大きくて、職業柄、まちづくり・都市計画をやる上で、誰かに伝えるための資料を取り集めないといけない。ましてや他の街ではもう震災からわずか2週間も経ってないのに被災地との温度差が出ている、非常にまずいことだと思って使命感を持って、カメラを持って出かけていたんですが、この写真を撮った瞬間ぐらいだったと思うんですけれども、現地で泥かきボランティアをしていた方に、「なにやってんだ」「写真なんか撮ってんじゃねぇ」という風にもの凄い剣幕で怒鳴られました。これは非常に難しい局面にあるなと。物見遊山で多くの人が入ってくるということへの抵抗感が、当時はあったというのは間違いない事実ですし、なおさら必死に遠くから泥かきに来てくださっている方々にとってみると、そういう姿を見ると面白くないというのは勿論あると思うんです。同時に、この瞬間の街の様子をどうやって記録していけばいいのか、被災した皆さんに負荷をかけない記録の残し方ってどうすれば良いんだ、というのを悩まされた1枚でして。ものすごく、これは私に撮って、この後の写真の撮り方変わったんですよ。どうするといいんだろうというのを頭の中で悩んだ1枚です。
[佐]小地沢さんからその話は初めて伺ったんですけど、何故これを選んだかというと定点観測で同じ場所を撮りにいったんですけど、なかなか探せなかった場所だったんですよ。それで、小地沢さんなんでここから撮ったんだろう、なんで居たんだろう、というのも気になっていて。小地沢さんから、画像の提供してもらったときに、一番最初に聞こうと思ってた写真だったんです。まさかそういう裏話があったとは思わなかったですね。
先ほど、負荷をかけないで写真を撮る方法はないかと仰ってましたけども、その後、写真の撮り方変わったっていうのはその辺が影響してですか?
[小]そうですね、まずはボランティアさんがいる、あるいは被災された方がいる場所では、当然人にカメラを向けないか、声をかけてから撮るということを、それをもの凄く心がけるようにしましたし、出来る限り自分が何者かというのを明かしながら歩いていくようにしたのもこの辺りからです。
*この記事は、2013年6月1日にせんだいメディアテークの考えるテーブルで行われた『3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクト公開サロン「みつづける、あの日からの風景」』で、小地沢将之さんがお話された内容を元に作成しています。
当日の様子はこちらからご覧いただけます。
《考えるテーブル レポート》→http://table.smt.jp/?p=4361
【3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクトとは】
このアーカイブ・プロジェクトは、東日本大震災で被災した宮城県内各市町の震災直後の様子、および震災から定期的に定点観測し復旧・復興の様子を後世に残し伝えるために、市民の手で記録していくものです。これから市民のみなさまから記録者を募っていくとともに、その情報交換・活動の場を公開サロンとして定期的に行っていきます。これらの定点観測写真は、NPO法人20世紀アーカイブ仙台とせんだいメディアテーク「3がつ11にちをわすれないためにセンター」で記録・公開し、市民参加で震災を語り継ぐ記録としていきます。
NPO法人20世紀アーカイブ仙台
公式Web:http://www.20thcas.or.jp/
【考えるテーブルとは】
人が集い語り合いながら震災復興や地域社会、表現活動について考えていく場を「考えるテーブル」と題して、せんだいメディアテーク、7階スタジオに開きます。トークイベントや公開会議、市民団体の活動報告会など多様な催しを行っていきます。
|記録の利用事例|
2枚目の写真は、展示「3月12日はじまりのごはん」で利用しました。
来場者がこの写真を会場で見て、想起したエピソードを下記のリンクからお読みいただけます。
04「コンビニやスーパーが使い物にならなかったので野菜などは、普段行かないような個人商店を利用していました。」