記録者:10代、女性
2011年3月11日当時は石巻市立女子校等学校※の1年生。
地震の時は宮城県石巻市日和が丘に建つ同校の校内にいた。
その後、部活顧問の先生宅などで避難生活をおくる。
※その後、石巻市立女子高等学校は石巻市立女子商業高等学校と統合され、2015年4月から石巻市立桜坂高等学校となった。
■部活動中に地震発生
私はあの日、学校で部活動をしている時に被災しました。
大会前で熱心に練習に励んでいると、地響きとともに大きな揺れに襲われ、顧問の先生の指示でひとまず屋外に避難しました。外は雪も降っていて視界も悪く、周りの状況も把握できないまま、同級生や先輩方と肩を寄せ合い、寒さと恐怖に耐えながら揺れが収まるのを待ちました。
建物の鉄筋は揺れにより大きな音をたて、コンクリート壁はその揺れによってひびが入り、一部は崩れ落ちもしました。そんななか私は、けたたましいサイレンの音と共に防災放送で流れる大津波注意報を聞き、事の大きさに怯えていました。
ようやく揺れが収まったころ、校内にいた生徒は1カ所に集められ、先生がたは現在の状況確認や今後の動きについて話し合っていました。「自宅に帰れる者は帰れ」という指示もあり、数人が自宅を目指し学校から離れていきました。
学校は小さな山の上にありましたが、そのふもとには町があり、目の前には海がありました。普段なら地平線まで見渡せるほど眺めが良いところでしたが、雪のため視界が悪く、本当に津波が来るのか、もしくは来ているのかも分かりませんでした。しかし、数十分後、下校した子たちは青い顔をして学校に戻ってきました。
その子たちは、「駅を目指して坂を下っていったところ、津波で町は水だらけ。とても帰れる状況ではなかった」と言いました。そこでようやく、学校に残っていた人たちも津波が来たことを知りました。
そうこうしているうちに、学校は津波から逃げてきた人たちで溢れかえり、中には全身びしょ濡れの人もいました。幸い校舎は地震の揺れに耐え、所々にひびは入ったものの人が居る分には十分な状態だったため、避難所とすることになりました。
2011年3月11日当日の学校の図
■学校へ避難してきた方がたへの対応
午後5時20分。私がようやく時刻を確認できた時間です。アリーナ(ホール)、教室、廊下に至るまで校舎は人で溢れかえっていました。その中で、学校にいた生徒や動ける若者は、津波で濡れた人やけが人の対応に追われていました。具体的には避難してきた人の案内や、学校中のカーテンや段ボールを集め避難者の方に配布するなどでした。また、避難者の中には全身が濡れ、けいれんを起こしている年配の方もいて、そのような方を保健室に運ぶこともしました。
私はこの学校の生徒ということもあり、最初はカーテンを集める作業、その後は人を案内することを主にしていました。先ほども述べた通り、私の母校は小さな山の上にあり、4階建ての校舎の上に行けば行くほど、見晴らしの良い場所でした。私はカーテンを集める際に4階に行ったとき、初めてふもとの現状を目の当たりにしました。
いつも青々と輝いていた海は茶色く濁って町を飲み込み、至る所で煙も上がっていました。たくさんの家が立ち並んでいた場所はもはや面影も無く、唯一、赤い屋根が流されていくのが確認できました。
2011年3月11日17時55分
宮城県石巻市日和が丘2丁目11-8 石巻市立女子高等学校
校舎から海側を見ると、ふもとで火の手が上がっていた
私は身体が震えました。正直に言うと、私はこの時まで津波が来たという実感がなく、全身ずぶ濡れの人を見ても「何でこんなに濡れているのだろう……」と疑問にさえ思っていたからです。
ようやく私は気づいたのです、津波の恐ろしさに。しかし、恐怖はそれだけで終わりませんでした。
「アリーナに居る、津波で全身が濡れた年配の方の状態が思わしくないため、保健室に運びたいから案内してほしい」と、ボランティアで働いている青年から声がかかりました。私は1階の保健室まで、年配の方を運ぶその青年を案内することになりました。
この時私は、地震が起きてから初めて保健室に足を運びました。そしてその光景に、再び身体が震えました。
重症の方が運ばれていた保健室は、全身ずぶ濡れで寒さからうめき声を上げる人、身体がけいれんし意識がもうろうとしている人びとで溢れていました。その中で、普段は静かな養護教諭の先生が、大きな声で意識がもうろうとしている人に声を掛けながら濡れた服を脱がしていました。
失礼かもしれませんが、私には、その光景が地獄絵図のように思えました。
■別の学校へ避難
そうこうしているうちに日は暮れ、夜になっていました。でも決して暗くはありません。なぜなら、ふもとの火災で外がオレンジ色に染まっていたからです。時々火災現場から爆発音も響き、校舎の窓を震わせていました。
避難者の方がたの対応も一段落し、生徒は1つの教室に身を寄せ合っていました。疲れて眠る子や、友達とお喋りをして気を紛らわせる子などさまざまでした。私は空腹と不安から喋ることもせず、寝ることもできず、外を眺めていました。
そんな時、先生から「校舎に居る全員で別の学校まで避難する」ということを言われました。理由は例の火災でした。どうやら火の手は学校のすぐそばまで迫ってきているようだが、道が悪くて消防車が入れず消火活動が出来ないからということでした。
まずは一般の動ける避難者から移動し、次に生徒が、という指示でした。30分~1時間ほど待ち、ようやく徒歩で15分ほど離れた中学校に移動しました。時刻は深夜1時ぐらいだったと思います。その中学校にもたくさんの避難者がいたので、なんとか人の少ない教室を探し、そこでひとまず寝ることになりました。もちろん布団などはないため、自分の荷物が入ったバックを枕代わりにしてフローリングに直に寝そべる程度でしたが。
その教室には、私が所属していた部活の部員と大家族(おそらく両親、祖父母、おばさん、子どもだったと思います)とその近所の人と思われる方、年配の夫婦とペットの犬、若い母親と赤ちゃんがいました。そこでは大家族のものと思われるラジオが流れていました。本震の震度や震源地の事、福島では原発事故が起こっていること、各地の情報や行方不明者のこと、気仙沼で火災が起こっていることなどを繰り返し繰り返し言っていました。また、余震も頻繁に起こっていたため、私はあまり寝ることができず、ずっとそのラジオに耳を傾けていました。
そして夜が明け、朝を迎えました。私は所属する部活の部員総勢10名と共に行動しました。まず3グループに分かれ、段ボールやカーテンを探す係、食料を手に入れる係、顧問の先生を探すため学校に戻る係に分かれ、それぞれ行動しました。私はカーテン等を集めるため、私ともう2人で学校を探し回りました。しかしどこのカーテンも既に取り外され、使われていたため、新聞紙と数枚の段ボールを持ち帰りました。途中で、生存確認や連絡先が書かれた紙が一面に貼ってある場所などができていることなども分かりました。
その後それぞれ合流し、周りの状況や今後のことなどを話し合いながら、食料入手班が手に入れてきたお菓子(それしか売っていなかったらしいので……)と、配給でもらったわずかなお煎餅を食べ、日が暮れるのと同時に就寝し2日目を終えました。
3日目。少しずつ避難所での生活にも慣れ、同じ教室の方がたとも仲良くなり始めました。特に赤ちゃんを連れた母親の方や、犬を連れた年配の方とお話ししたり、赤ちゃんや犬と遊んだりするようになりました。赤ちゃんや犬は本来ないたり騒いだりするものですが、自身が置かれている状況を分かっているのか、とても大人しかったように思います。
そして3日目になると、外ではドクターヘリが飛び交うようになりました。赤いヘリが校庭に舞い降り、患者を乗せ飛び立つ姿はとても輝いていました。そんなことをしているうちにあっという間に3日目も過ぎていきました。この頃になると配給も豆腐とシーチキン等、少しばかり豪華になりました。
■先生の家へ避難
4日目。やっと顧問の先生が見つかり、同時に父兄の方が車で、自宅に戻る事が可能な部員を送迎してくれ、残るは私を含め3人となりました。そして残された3人は、顧問の先生の自宅に泊めていただくことになりました。
先生の自宅までは徒歩で向かい、途中でファミリーレストランが配っていた冷凍食材を貰ったりしながら、町に残った海水やヘドロをかき分けていきました。いつもは活気に溢れ、車通りも多かった街なかは津波でぐちゃぐちゃになり、潰れた車などが途中の道端にたくさん転がっていました。そして、顧問の先生の自宅に着きました。
そこには先生の奥さんやご両親、元気なお子さん、親戚の方もいて、避難所とは一変し、被災中だということを感じさせない、温かく穏やかな家庭の姿がありました。もちろん、電気や水道は通っていませんでしたが、ガスが使えたため私たちは数日ぶりに温かい食事をいただくことができ、夜は布団で寝ることもできました。久しぶりに普通の生活に近いことができ、その日は安心して寝ることが出来ました。
いま思うと、避難所と家とでは安心感などが全然違っていたと思います。もちろん自分の自宅ではありませんが、大人数で隙間風が吹く教室等にいるよりもずっと落ち着けたと思います。
5日目。朝から温かい食事をいただき、その後は先生のお子さん達と遊んだりして時間を過ごしました。やはり避難所にいる子とは違い、お子さん方も、家族に囲まれ自宅で過ごしていたためリラックスしていたと思います。
その後、部員1名はその場所から歩いて帰れる距離だったので、先生と私ともう1人の先輩とで、その子を送り届けることになりました。その途中で学校の臨時職員の先生に会い、その方の地元の状況のお話を伺ったり、持っていたおにぎり等をごちそうになったりしました。そして、私の地元とその先生の地元が近かったため送っていただくことになりました。
こうして私は5日目にしてようやく自宅に帰ることができました。
■そして、家族と再会
自宅も電気・水道は通っていませんでしたが、カセットコンロや石油ストーブを使ったり、庭にある井戸水を利用したりや山に水を汲みに行ったりして、何とかライフラインが復旧するまで頑張って生活しました。
私の地元には大きな避難所が2カ所・遺体安置所が1カ所設置されたため、違う地区の人びとがたくさんいて震災前よりもうんと治安が悪くなりました。
私の家族は父・母・祖母・兄の5人家族でしたが、母だけは仕事の都合上1カ月ほど家に帰ってこられず、お互い生存確認はできていたものの心配や不安が募ったりもしましたが、何とか震災を乗り越えることが出来ました。
ここに書ききれなかった事や、その後もさまざまなことがありましたが、ひとまずこれを区切りとし、体験談とさせていただきたいと思います。
2011年4月5日
宮城県石巻市日和が丘2丁目
日和山から日和大橋を望む
2011年4月6日
宮城県石巻市中央1丁目
永厳寺の前、「金華山道碑」の三叉路のあたり
2012年8月10日
宮城県石巻市日和が丘2丁目11-8 石巻市立女子高等学校
校庭には津波で甚大な被害を受けた石巻市立女子商業高等学校の仮設校舎も
2012年8月10日
宮城県石巻市日和が丘2丁目11-8 石巻市立女子高等学校
校舎4階から石巻湾を望む
2014年1月寄稿