この記事は、2011年7月23日に配信されたUstream番組で、東日本大震災における支援活動に携わる出演者たちが語った内容を、テキストで再構成したものです。
【わすれンTV311】『支援のかたち~テキスト版!サポセンかわら版~』
支援の始まりとこれからの課題について語り合います。今回の課題は、被災者に直接食べ物を届ける支援活動の中でも特に重要な活動である炊き出しです。震災後いち早く炊き出しを行ったり、炊き出しの支援団体を受け入れて共同運営した方々をお招きし、震災後からどのように支援体制を整えて、今までどのような活動を行っていたのかを伺います。また、震災から4ヶ月が経ち、避難所から仮設住宅へと以降する中で炊き出しの活動はどのように変化しているのか、食と被災地の状況について話し合いました。
※本文中の[映像:○分]は、ユーストリームの冒頭からの経過時間を表しています。
- にちじ
- 2011年7月23日 (土) 18:30~19:30
- ゲスト
- 蓜島一匡(NPO法人ホームレス支援全国ネットワーク、グリーンコープ生活クラブ、東日本大震災被災者支援共同事業体 現地対策本部事務局長)
志賀善之(NPO法人みやぎ・せんだい子どもの丘、仙台市鶴巻児童館館長)
渡辺清(NPO法人 萌友[ほうゆう] 事務局長) - しゅさい
- 仙台市市民活動サポートセンター
3がつ11にちをわすれないためにセンター
※ゲストの肩書きは、放送当時のものです。
<活動を始めたきっかけ>
■現地団体と連絡が取れない[映像:13分]
[蓜島]私たちのホームレス支援ネットワークの会員団体が仙台に3つあるんですが、連絡を取ったんですが当然連絡がつかない、連絡がつかないということはよっぽどのことだなと。メディアを見てもすべて分らなかったので。ただ準備はしないといけない。行く手はずが東北自動車道で行くんですけれども、緊急車両証(注:震災直後は、緊急車両証のある車しか高速道路を通行できなかった)もなかなか取れなかったので、とにかく体制作りというのを最初にやりました。まず食品が足りないだろうということと、いろんなライフラインがないという事を想像していたので、プロパンガスであるとか、炊き出しする道具であるとか、あとレトルト食品もそうですし、とにかく2トン車に満載に積んで走りました。同時にいろんな企業さんや団体さんを通じて、新体制を作って、まず先遣隊を出して活動を進めたというのが初期の動きです。
[司会]先遣隊が行ったのはだいたいいつ頃なんですか。
[蓜島]だいたい震災から1週間後くらいですね。物資は先に提供できたんですけども、先遣隊が入って、そこから定期的に活動できるようになりました。
[司会]では、物資の提供は早めに。
[蓜島]そうですね。提供は地元の団体にできたんですけど、実際にスタッフは誰が行くかということもありましたし、そういうことで少し時間がかかりました。
[司会]物資は、まずいつ頃のことですか。
[蓜島]物資は、翌日には走りだして、走りながら場所を決めた、という。どこに行くか分らないんですけれども、物は九州のグリーンコープの方から出ました。とにかく積んで、走って、行き先は後で告げるからという形で、やはり行くまでに時間がかかるので、まずそういう動きが始めにあったみたいですね。
[司会]じゃあ、下の道で。
[蓜島]ええ、下の道で。
[司会]仙台のその3団体というのが、どこか教えていただけますか。
[蓜島]こちらにいらっしゃる萌友さんとワンファミリー仙台さんと、仙台夜まわりグループさんですね。それに対して、炊き出しの道具はもともとこちらにあるので、ガスとか調味料とかそのときあるものを積んで走ったというのが現状です。
■ホームレス支援のノウハウを活かして[映像:16分]
[渡辺]私たちは、毎月第3週にホームレスの方に炊き出しをしているんですが、3月12日に炊き出しをする別の支援グループが、11日に炊き出しの準備をしていました。私はその団体の会長をしているんですが、炊き出しの準備があったものですから、3月14日にカトリック北仙台教会で保存食を使って炊き出しを始めることになったのです。私ども萌友と、別の支援グループに炊き出しの道具がガス炊飯器から米からワンセットありますので、それを提供して当初は始めました。そのうち、蓜島さんの団体から野菜とか食品がいろいろ届いたので、それを使わせていただきながら、3月31日まで被災者支援の炊き出しを続けました。だいたい60数名の方がいらっしゃいました。皆さんおかわりしてくださったので、毎回120食くらいです。
[司会]それまでのホームレスの方の炊き出しと、震災後の炊き出しと活動内容や大切さは全然違うものですか。それとも同じものですか。
[渡辺]同じですね。ただ、ラッキーと言ったらいいんでしょうか、路上生活している方も避難所に入れたということが非常にラッキーだったと思います。避難所では一応3食出て、雨露しのげるスペースが与えられたということで、ある避難所では閉鎖される最後まで粘っていたホームレスの方もいらしたということなので、路上生活者の方にとってはある意味ラッキーだったんじゃないかなと思います。それだけ食べる回数が増えましたので、ある意味良かったと思っております。
■在宅避難者からのSOS[映像:20分]
[志賀]私は児童館の職員なので、もともとは炊き出しを普段することはないんです。震災があって、児童館の目の前が避難所の小学校なので、そちらで1週間くらいお手伝いをしていたときに、避難所にいた方たちは食べ物があるけれど、家に帰って1週間くらいたってもう食べ物も底をついたのでどうにかならないかという方が結構いらしたんですね。私もそういう問い合わせがあったときに、どうしても避難所運営する上での決まりがあったので、食べ物は差し上げられなかったんです。でも食べ物がないという事実があるので、そのとき前の館長が社会福祉協議会から炊き出しの依頼が来ているんだけど、どこももう決まっていて受け入れ先がないから、どこかないかという相談を受けました。それだったら、うちの児童館に来ていただいて炊き出しをしてもらうと、ほしい方がたくさんいるので、ぜひぜひ来てください、ということで受け入れをしました。
児童館の位置が、津波被害のキワにあったので、ライフラインも復旧するのもだいぶ遅かったんです。最初の頃、復興したところでは避難所の方たちだけでというのでも大丈夫だったと思うんですけど、私たちのいる鶴巻地区が被害的に大変な思いをして避難所に入っている方たちも多いんですけど、周りの店も全部使えないような状態でした。そういったことで言うと物が手に入らないということが、2週間3週間という、他の地区よりは長いスパンで続いてたとは思いますね。
[司会]鶴巻の地区にはいろいろ炊き出ししてくれる団体さんは入ってきてくれていたんですか。
[志賀]こちらも、もともとそういう団体を受け入れるような団体ではないので、こちらから「この日に来てください」というのは多くなかったんでけれど、たまたま来ていただいた団体さんのつながりや、児童館でお預かりしているお子さんのお母さんの会社の方々ですとか、また新潟の方から「支援は要らないって言われてるけど、そんなはずない」といって先ほどの社会福祉協議会を通じてきてくださることになった団体さんとかもいました。それでも5団体位か、それほど多くはないですけれど、何回か来ていただきました。
[司会]それは、いつからいつまで、どれくらいの量でしたか。
[志賀]震災後1週間くらいは避難所の方たちだけで食べていて、ちょうどお話いただいたのは1週間後ぐらいですけども、他の団体さんに入っていただいたのが、3月中でいうと6回くらいで、延べ1500食くらい。実際炊き出しを行ってみると、本当に多くの人が集まってくださったので、やはり必要だったんだなあというのが正直なところです。
[司会]蓜島さんは東京からいらして、今お二人の仙台で炊き出しをすることになった団体の方が、特に避難所の方には出ているけど在宅の方にはないとか、炊き出しをする場所がどこかとか、東京で情報は入ったんですか。
[蓜島]東京では情報はつかめないので、仙台に入ってから私も10日間くらいこちらで寝泊りさせてもらって、地元の団体さんの方々と情報をやり取りしながらやりましたね。炊き出しを単にするだけではなくて、避難所にたくさんの救援物資が届いていたので、それを調理できるような炊き出しの道具を貸し出してあげるとかしました。
どうしても避難所に集中しがちだったので、避難所じゃないところに非常に困窮されている方がおられるんじゃないかと、連絡がつかないところは何かしら理由があるということで、福祉施設とかにくまなく電話して、連絡つかなかったらまず行ってみようと行ってみたら、やはり何の支援もなかったですね。
津波の被害のない内陸のところは特に忘れられている、あそこは被災地じゃないという。ただ行ってみると、私たちはガソリンを確保できたけれど多くの人はガソリンを確保できていない(注:被災地では、製油所の被災や道路の寸断により深刻なガソリン不足がおこり、緊急車両証のある車のみ優先的にガソリンが提供されていた。ガソリン不足が解消されたのは、4月に入ってからだった)。車社会でスーパーに車で行ってらっしゃる方々にとても提供されないということで、内陸の方へ行ってみると1ヶ月経ったくらいでも、初めて支援に来たというところがたくさんありました。むしろ私たちのような小さな団体は大きいとこだけに行くんじゃなくて、大きな団体が気がつかないようなところへ行ってみようと、動いた部分はありますね。
[司会]どのくらいの期間で、そのくらいの量を後方支援したんですか。
[蓜島]後方支援で、萌友さんであるとか、地元のいくつかの団体、岩手県、福島県も含めて、食品だけであれば今までで70トンくらいじゃないですかね。あとは、布団は生協組員さんが提供してくれたものがたくさんあるので、布団をトータルで10トン、車で10台くらいですかね。はじめ毛布を重ねて寝てらっしゃったとか、ダンボールをひいた上に何か、というのがあったので、やっぱり布団が意外と喜ばれて、敷き掛け布団をかなり提供させていただきました。
■炊き出しを支える人[映像:27分]
[渡辺]いつも炊き出しをやってくれているメンバーとは、当初携帯にしろ、固定電話にしろ連絡がつかなかったので、それはできませんでした。それから、ガス欠で車を出せない。結局、北仙台教会でやれたというのは、そこに集まれる婦人会のメンバーがいて、そこに私たちが合流することでできました。毎月炊き出しをしているメンバー自体が被災していて、とても人ごとではなかったというのが現状だったんじゃないでしょうかね。私も3月11日〜13日の3日間姪のところにいまして、全然情報が入らなくて、14日に朋友の事務所に行って、新聞を見て初めて津波があったとか福島の原発事故があったということを知ったくらいでして、あの時はみな自分のことで精一杯だったと思うんですね。ですから、3月14日から被災者に炊き出しができたというのは本当にラッキーだったなと思っています。
[志賀]炊き出しに来ていただいた方は、企業さんや赤十字社さんなどの団体に来ていただいたんです。けれど、うちのほうへはそういう情報が余り入ってこなかったもので、自前で備蓄していたうどんとかがあったので、そういう方たちが来られない時は児童館の方で炊き出しを行いました。うちは大きな道路(仙台東部道路)を挟んで海側の方が、1回浸水しているような地区だったので、そちらの地区に炊き出しをして持って行くとか、余ったものを持って行くというような活動をしていましたね。
[蓜島]私は仙台市青葉区二日町にあるワンファミリー仙台の事務所にずっといたんですけど、当初二日町の事務所で炊き出しをして、そこで炊き出しを受けてらっしゃる方たちが「何か私たちにできることないですか?」と。電気の回復が早かったみたいなので、お米はあるけどご飯が炊けなかったんですよ。事務所には釜がそんなに大きいのがなかったんで、みなさんにお米を提供して、各家庭の炊飯器で炊いて、おにぎりにしてもらって、事務所に集めて、それを毎日配達していましたね。皆さんが進んで何かしたいですということで、みんなおにぎりを握って、1日に4回も5回も握って持っていらっしゃる方だとか、3月下旬くらいから仕事に復帰された方も出勤前に事務所に持って来てもらって、被災地におにぎりを毎日届けていたということはありました。
[太田]ホームレスの方が炊き出しを手伝っているという記事も新聞に出ていたりしましたね。皆さんが助け合って、という感じだったんだと思います。
[蓜島]そうですね。いろんな人が協力してできたんじゃないかなと思いますね。私たちのような外部の団体だけじゃなく、多いときは20くらいの団体でそれぞれの持ち場で得意分野を活かしながら、活動をしていました。
[司会]蓜島さんのところは、仙台以外の所でも活動されていたんですか。
[蓜島]そうですね。炊き出し、物資も含めると、福島にも提携している団体に対して物資提供していますし、岩手県にもしています。一応全域に渡って提供して、だいたい400以上の所には行ったんではないかな、と。ただ私たちは、1回だけではなくて、やはり長く続ける支援して行きたいと考えて、今もやっています。
もちろん当初に比べれば、提供する頻度は下がっていますけども、一番多いときは、多分車10台くらいで動いていました。今そこまでではないですが、どうしても買い物行くのにも遠いとか、高齢の方でなかなか外に出れない地域とか、ある一定ラインのライフラインが回復していないところもありますので、そこへ対しては継続的に支援しております。
今も行っているのは、牡鹿半島の先や女川であるとか。上は宮城県で言うと気仙沼まで行っていますし、近場でいうと亘理町の方で避難所へ入られてなくて自宅で避難されている方がなかなか物資の提供をいただけない地域があるので、そういうところへ私たちのような団体が提供できるかなと思っています。
■活動をするなかで見えてきたこと[映像:34分]
[渡辺]震災直後、スーパーもコンビニも閉まりましたし、食料の調達ができなかったわけです。週開けて3月14日に事務所に出勤しましたら、お昼近くに仙台駅前でホームレスの自立支援のための『ビッグイシュー』という雑誌を販売している方が、私が一人暮らしで生活力がないものですからヤバイと思ったらしくて、食料を調達して事務所に運んでくれました。普段はホームレスの人の支援の炊き出しをやっているわけですけれども、その時は立場が逆転しまして、本当に彼に命を助けられたという思いで感謝していました。
震災後、普通にホームレスの方のための炊き出しが始まったわけですけれど、自分がそういうふうに助けられたので、多分自分の弱さを噛み締めて、いくらか気持ちというか人間が優しくなったかなというのが、この震災で得た教訓のような気がします。
[志賀]支援活動を行ってきてということでは、うちは児童館なので、基本的にはお子さんやそのお母さん達に利用していただく所なんです。その地域の方々が来て一緒に行事をするということはあるんですが、今回この支援活動をしていて地域のおじいちゃんおばあちゃん達が炊き出しに並んでくださったりしました。炊き出しして多分1日目、2日目ぐらいだと思うんですけど、その時はカレーを炊き出ししてたんですけど、児童館に来たことのないおじいちゃんが1人いらして食べて、児童館ではなくて他の団体さんが出していたんですが、私たちにすごく感謝されていかれて、1回帰るときに「余ってるのでお鍋に持っていっていいですよ」と言ったら、1度帰ってお鍋を持って来てカレーを持ち帰ったんです。その時の感謝の仕方が、ご飯がなくて死ぬかと思った、というような表現を使いながら「ありがとう。ありがとう」と最後まで言って帰られたことが印象的でした。
本当に食べ物がないということの辛さを今回改めて痛感させられました。もうひとつ、いろんな方たちに支援していただいて、私たちは中間の位置で大変な方たちに支援物資が届いたり、食べ物や炊き出しが届いたりするときの中継点にいるんですけど、私たちに「ありがとう」と皆さん言ってくださるんですが、支援を受ける方々が「それ、多くあるから児童館で使えるんじゃないの。他の人たちに使えるんじゃないの」と、支援を受けるだけじゃなくて、余ってるから児童館で他の人にあげてくださいという拠点にもなれたなということが、終ってみて良かったなと思います。
[蓜島]フリップに書いたんですけど「また来てくれたんだ」ということですね。いろんな団体さんが支援したときに受ける側からすると、明日はどこが来るんだろう、と。1回は来てくれるけど次は来てくれるのかな、という不安がすごくあって。特に遠くになればなるほど、行き難さによって、なかなか支援が少ないんですね。道が悪い所だったり、遮断されている所を迂回して行ったり、「次はいつ来てくれるんですか」というような話は結構いただきました。
私たちは、量ではなくて、やはり長く関係性を作りたいと思っていたので、先ほどのおにぎりを毎日届けようと。30個なら30個を届けようと。効率的には悪いんですけども、効率ではなくて関係を作って1週間やっていると、向こうから要望が出てくるんですね。はじめはすごく遠慮されている部分があって、「私大丈夫ですから…」でも、1週間経つと「いや、実は・・・」というようなお話をいただいたりとか、そこまで関係ができると「もし何かあったら電話ください」というかたちで、電話いただいて「今こういうことで困ってるんです」というお話をいただきました。
それから情報がないっていっているときに「新聞が読みたい」というので、「分りました。私たち毎日新聞を運びましょう」と仙台市で新聞を調達して、新聞とおにぎりをセットで、結構遠かったし道も思うように通れないんで、配送の人間は交代で行かないと大変だったんですけど。「すごく有難かった」と言っていただいて、やはりそういう支援が必要なんだということを感じました。
[司会]地理的に買い物できる環境とか、インフラの環境とか違うと思うんですけど、結局避難所では避難所にいる人にしか支援が行かないとか、情報が偏ったりしてしまったりって、ツイッター、ネット、メールとか発達してるとはいえども、炊き出しでも、物資でもやはり偏りは出てたと思うんですよね。それは、やはりひとつずつ電話したり、地域で密着して継続しながらやるということを地道でやることが一番大切ということなんですかね。
[蓜島]そうですね。どうしても皆さんはそれぞれの思いでやってらっしゃるので、そこで重なってしまうのは致し方ないんですね。それを制御する場所もないですし、それはもう仕方ないですね。私も仙台へ5日後に入ったんですけど、震災からの5日間は極限状態で運営されていますし、1週間、2週間、1ヶ月、いろんな事を気にしながらされてて、その情報をまとめて下さいなんてことは、できるわけがないし、できないですね。なので、あくまでも支援の方々が本当にいい状態がどういうことなのかを考えながら、そこを埋めていく、というのが私たち、民間がすることなのかなと思いました。
■活動の変化[映像:44分]
[志賀]先ほども言いましたが、炊き出しがメインの施設ではないので、ここまで復興すれば炊き出しはいらないかということもあるかもしれないんですけど、私たち児童館では4ヶ月くらい経った今でも炊き出しの団体さんに来ていただいています。先ほども言ったような楽しい行事やイベントで活動を広げていまして、小学校の敷地の隣に今は仮設住宅も建ちました。
これからその仮設の方たちと地域の方たちを巻き込んだ関係性というかコミュニティを作っていかなくちゃいけないなという実感がすごくあるんです。
そのなかで、炊き出しという食べ物を通じて交流するというのが、すごく有効なのかなというのを実感しています。先月も炊き出しに来ていただきました。それに地元のダンスをしているおじさんたちのグループがあるんですが、その方たちにダンスをしてもらって、仮装しながらみんなで笑いながら、ダンスをして、食べ物を食べながらみんなでわいわいと楽しみましょうというイベントをしたんですけど、そういったことというのは、今後地域を作っていく、地域のかたちも震災後はどんどん変わっていると思うので、そういうことはこれからは必要になっていくんじゃないかなと実感としてあります。
そのイベントの時というのは、地域の方どなたでもいいですよ、と公開しているイベントなので、どこから来た、とかそういうことではなくて、仮設の方たちはもともと自分の地区ではないので来づらいという事があると思うので、民生員の方に仮設の方と交流を図りたいとお話したら、仮設の方へ足を運んでもらって顔つなぎをしてもらったり、チラシを配らせてもらったりしました。
鶴巻地区、沿岸部には非常に熱心な民生委員の方が多くて、そういうこともしていただいたりもするので、今後も人と人のつながりを深めていくような、今まであった民生委員さんとのつながりをフルに活用しながら、仮設に入っているほかの地域の方たちも巻き込んでいく地域づくりが必要なんじゃないかなと思っています。
[渡辺]今、「震災ホームレス」ということを言われています。炊き出しに見たことのない人がいるな、と思って話を聞きましたら、石巻のアパート暮らしで、津波にあって避難所に入ったそうですけども、若いのにいつまで避難所にいるつもりなんだ、みたいな視線を感じて、仙台に行けば何とか職にありつけるんじゃないかと思って仙台に来ましたけれども、今はハローワークに行ってもなかなか職につくという事は難しい。それで、持ち金使い果たして路上生活者になってしまったという若い人が2人いました。どうしたらいいか、ということで、萌友のアパート(註:ホームレスの自立支援のために団体が用意しているアパート)は定員満員なので、萌友でお世話することができないので、仙台市でやっている自立支援センターに申し込んで何とかしのげるようにと進めていますけれど、そちらも今は待機の状態だそうです。申し訳ないんだけれど、その間路上で命をつないでもらいたいというか、食料調達の方法というのがホームレスの方は詳しいわけなので、恥を忍んで、例えば仙台にきたら仙台の人、勾当台公園だったら勾当台公園に集まる人にノウハウを教わって、それで命をつないでほしいなというふうに思っています。
それで、私個人としてはこの炊き出しを始めて11年目ですけど、もちろんこの大震災前と状況は違うんでしょうけども、これから震災後半年くらいたってから、避難所が閉鎖されていきますので、身の置き所がなくなった人が、ドバッと路上に出るんではないかということを一番気にしています。そしてそのときに、果たして私たち支援団体や行政が上手く対応していけるのか、とても不安ですし心配なところです。
[蓜島]私たちは、当初物資支援を活動としてはやっていたんですけど、長期での支援を考えていますので、仮設住宅の方の見守りであるとか、孤立された集落が出ないような見守りということをもうちょっとしていきたいと考えています。
そこには、先ほどおっしゃられていたような炊き出しというのが、当初命をつなぐ「食」っていうのであったと思うんですけど、そこからいろんな方が集う場所ですよね、バーベキューやってもいいと思いますし、それによって新たなコミュニティが作れるかなとは考えています。
食の提供の仕方というものが、様々あるんじゃないかなと。物だけ提供するのではなくて、食事として提供して集ってもらって、顔が見えることで新しい関係が、仮にそこにいろんな方が関われば、そういった支援が継続的にまだあるってことは、今後仮設に入られたり状況が落ち着いたときに、やはり先行きが不安な方が多いと思うので、そのときに支援があるという事がすごく心強いと思います。
私たちが目指す所の孤独死される方や孤立した人たちを出さないようにする、という意味では炊き出しをしながら、同時に心のケアというところでも関わって行けたらなあと考えています。
[太田]皆さんのお話を聞いて、最初震災直後は割と新しいつながりや、新しい支え合いが地域で生まれていたと思うんですね。そこから今度復興になってくるなかで、今度は逆に孤独死してしまう人がでてきたり、先ほど渡辺さんが言っていたように、震災ホームレスという新たな孤独が生まれてきてしまっているところがあると思います。せっかく新しいつながりや、支え合いという新しい気持ちが生まれた所では、それが絶えないようにしていかないといけないんだなと思っていて、そこで皆さんの力が必要になってくるんだなと感じました。
■今後の課題[映像:54分]
[渡辺]今、月に2回ホームレスの方に炊き出しをしているんですが、中心になっているのが60代の女性の方々で、幸いそこへ今月は2つの学校から高校生が3人ずつ6人参加してくれています。毎月高校生が参加してくれるということなので、高校生とおばさんの連合体で、今後も続けていけたらなあと思っています。ただ、今時の女子高生は包丁を握ったこともないということで、包丁を斧でも掴むようにして持ちます。ですから、まあ調理実習も兼ねていますね。
それから、衣服の提供をする時はサイズごとに仕分けするんですけども、それを測り方も畳み方もおばさんと笑いながらやっています。老いも若きもそうやっていければなと思っています。
一番思うのは震災を生き抜いた者として、震災から学べることは、ひとつは「命をつなぐ」ということですけれども、もうひとつは「シェアする」ということで、ひとつのものを分かち合うという経験ができましたし、ホームレスの方に炊き出しをすることは、シェアするというひとつの具体的な方法で、それは「生きることをシェアしていく社会や世界」を目指すことなんだということを、これからアピールしていけたらなあ、と思います。そういう場に高校生が参加してくれるのは、学べる場所でもあるのでいいことだと思っています。
多分震災の後、みんなが何か人のためにしたいと、老いも若きも思ったんですね。一番は世のため、人のため、自分のためということだと思うんですけど、それがきっかけとなって、具体的には何もない路上の人に何か手助けをしたいという、女子高生ですから美しい心の持ち主のお嬢さんたちだと思うので、それを汚さないようにやって行きたいと思っています。
[志賀]今後の課題としましては、炊き出しを通してコミュニティの再生というのが一番だと思うんですけど、私たちは児童館なので、震災後仕事を無くした人というのが、私たちの地区の港で働いていた方が多いんですね。そうすると経済的にも困窮している家庭が今増えていると思うんですが、なかなかそういうところに私たちの本分の目が行き届かないということがあるので、今後炊き出しを行って集まってくる家庭とかお子さんにもっと細心の注意を払って、目を配らせて、本当に困っている家庭があったら支援をしていく、ということが児童館としては必要で、課題なんじゃないかなと思っています。
[蓜島]長期に支援していくにあたって、今後どのように変化していくかということがなかなか想像がつかない。ポイントをもちろん絞ってはいるんですけど、行って今まで多くの地域に関わっている分、地域ごとの差がすごく大きいので、これをどういうふうに私たちのほうで消化して実行していくか、ということは日々検討しています。
今後やはり生きがいであるとか、仕事作り、やりがいですよね。そういうところが、外からのわたしたちの団体としてどういうような支援していけるのか、もちろん物資を提供するとか、まだできるんですけど、そこの何か「場」を作るっていうんですかね。
あとは何か手仕事を作って、みなさんが例えばそこで収入を得られる、やっぱり沿岸部に行けば多くの方が仕事を失ってらっしゃるわけで、行ってガレキの処理の仕事があったとしてもじゃあその先はどうなんだと。実際にお話を聞くと、これ、どうしたら何年後復活するのか分からないという不安が自分たちもあるので、その方々が何かしていただけるような仕事みたいなかたちを模索して、一緒に歩んで行ければなあと思っています。
※サポセンかわら版とは
仙台市市民活動サポートセンターが発行している復興支援活動に関する情報紙です。
http://www.sapo-sen.jp/kawaraban/
本ページは、下記リンクの
ユーストリーム映像の文字起こしです。