語り手:伊藤清市さん/進行・聞き手:佐藤正実さん(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)
■仙台駅前夜行バスで帰仙
[伊藤さん(以下、伊)]私は3月11日は仙台ではなく、島根県におりました。仕事で島根で会議をしていまして、会議の途中に第一報を聞きました。ただ帰れなくて、ずっと東京で1週間生活をしていました。私は19日に羽田空港から山形空港に降りて、山形空港から高速バスで関山を通って仙台駅に着きました。その時の写真です。この時は、仙台駅の工事が始まっていて、夜の11時半くらいだったと思うんですけど、光が煌煌と照っていました。山形から仙台へ向かうバスの中、ほとんど車のライトしか電気がないところで、西道路をちょうど上がって立町を越えて、国分町が真っ暗だったのがとてもショックでしたね。それでまず自分が、震災のあった仙台に戻ってきたのだなと実感しました。その後一番町のアーケードももちろん真っ暗で、3月19日は土曜日の夜になるんですけど、真っ暗な仙台で唯一この仙台駅のネオンが光っていたというのを鮮明に覚えています。
[佐藤さん(以下、佐)]この写真が何故震災の写真になるんだ、という風に普通は思われる写真ですよね。ただ、そういった経験をされて、バスで帰ってきて、だけども国分町や一番町は真っ暗で、やっぱり震災の影響がありありとしていて、その中で仙台駅だけが煌煌と電気が付いている。そういった話を聞くと分かるという、代表的な写真じゃないかなと思ったので今日ご紹介をしたいなと思いました。
■緊急車両や自衛隊車が停まる宮城県庁
[伊]仙台に戻ってきた後は、私は障がい者団体の支援活動に関わっていました。ちょうど私の車にガソリンがそれなりにあったので、県庁の福祉担当課が集めた物資を長町に運ぶ役割をしていました。いつも私は仕事柄県庁に行くことは多いのですけども、初めて震災後に入った県庁が、やっぱり全く様変わりしていて、こういった警備車両や緊急車両が多数待機していたというのは鮮明に覚えています。庁舎の中も、色んな張り紙があって、やっぱりこれはただごとではないなというのをとても感じた写真です。
[佐]伊藤さんはこうやって写真を撮るのはあまり違和感なかったですか?
[伊]さっきの仙台駅もそうなんですけど、もちろん今こういう形で皆さんの前で紹介されるというのは全く思ってませんですし、やっぱりいつもと違う、非日常だというところで、これはなにか残しておいた方がいいのかな、という感覚があったのかなと思いますね。だから、何を撮ろうとか、あれを撮ろうという被写体が別に決めている訳でもないですし、特に我々の場合はあまり危険な所自体が物理的に近づけないので、こういった、記録という意味では、もうありふれた日常のちょっと違う部分を撮ってきたのかなとは思いますね。
[佐]ツイッターやfacebookもやっていますが、ツイッターに載せたり、遠くの人に知らせるためとか、そういった目的もあったりするんですか?
[伊]私は3月11日直後のツイッターで皆さんの状況を知って、島根にいるってことも発信していたんです。実はその後東京にいる間はあまりつぶやけなかったんですよ。東京も計画停電をしていたため、真っ暗なビジネスホテルで1日中報道を見ているとですね、もうなにもできないみたいな感覚に陥ってしまいました。逆に戻ってきてからの方が、やっと戻ってきて動き始められるんだということで、向こうにいたときの方が何も手に付かなかったですね。
■公衆電話の使い方を書いた張り紙
[伊]これは3月30日の東北大学病院の中ですね。まだ携帯とか皆さん使えなかったりした状況の方も多数いらしたみたいで、写真を撮った後には何人かの方が順番待ちをされていたりしました。今はこの公衆電話も無くなってしまったんですけど、いつ頃なくなったのか実は定かではなく、いつの間にかなくなってしまったんじゃないかなとは思うんですけども、これも非日常のひとつかなと思いまして撮りました。
この日は、自分の診察のために病院に行ったんです。この時は気づかなかったんですが、自分自身が相当心身共にストレスが溜まっていまして、4月7日の余震のときにですね、ちょっと倒れてしまいまして、次の日から入院する羽目になってしまいました。
■避難所として使われた小松島小学校
[伊]3月31日に避難所として使われていた、仙台市内の小松島小学校の体育館です。この頃、避難所の集約の時期に入っていまして、この小松島小学校も今日でもう閉鎖しますよというところに伺いました。何故伺ったかというと、私自身障がいのある方々の相談員の仕事もしていまして、役所の方から「今小松島小学校でこういう方がいらして、話を聞いてもらえないか」ということで伺いました。実際私、このときに初めて避難所に入ってですね、ほぼ荷物も片付けられている避難所だったのですけど、それでも多数の方々が色んな準備をされていたり、私の相談した方がやっぱり行き場がなかなか見つからないということとか、これからどんな制度を使っていけばいいかとか、できる限りのそのときの情報はお話ししたつもりなんですけども、その後役所から、なんとか行き場が見つかったという話を聞いて、ほっとしていたところですね。
*この記事は、2013年4月30日にせんだいメディアテークの考えるテーブルで行われた『3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクト公開サロン「みつづける、あの日からの風景」』で、伊藤清市さんがお話された内容を元に作成しています。
当日の様子はこちらからご覧いただけます。
《考えるテーブル レポート》→http://table.smt.jp/?p=2846#report
【関連映像】
・わすれン!ストーリーズ 003 とっておきの音楽祭SENDAI 副委員長
・障がい者グラフィティ
【3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクトとは】
このアーカイブ・プロジェクトは、東日本大震災で被災した宮城県内各市町の震災直後の様子、および震災から定期的に定点観測し復旧・復興の様子を後世に残し伝えるために、市民の手で記録していくものです。これから市民のみなさまから記録者を募っていくとともに、その情報交換・活動の場を公開サロンとして定期的に行っていきます。これらの定点観測写真は、NPO法人20世紀アーカイブ仙台とせんだいメディアテーク「3がつ11にちをわすれないためにセンター」で記録・公開し、市民参加で震災を語り継ぐ記録としていきます。
NPO法人20世紀アーカイブ仙台
公式Web:http://www.20thcas.or.jp/
【考えるテーブルとは】
人が集い語り合いながら震災復興や地域社会、表現活動について考えていく場を「考えるテーブル」と題して、せんだいメディアテーク、7階スタジオに開きます。トークイベントや公開会議、市民団体の活動報告会など多様な催しを行っていきます。