語り手:工藤寛之さん/進行・聞き手:佐藤正実さん(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)
■震災翌日、たがサポの3階から見えた風景
[工藤(以下、工)]私は震災当時、2008年6月に開館をしました多賀城市市民活動サポートセンター(以下、たがサポ)という、多賀城を含めて活躍をするNPOとか、町内会・PTA・婦人会・自主防災の活動などを応援するための施設の責任者を務めておりました。3月11日当日なんですけれども、通常開館しておりまして、利用者の方も20名ほどいらっしゃいました。津波の直撃を受けるような場所ではありませんでしたが、残念ながらエレベーターがなく、2階にも大きな亀裂が入ってしまい、避難所にはならなかったんです。なので、施設は閉めて災害対策本部の手伝いに入ろうかと責任者としては考えていたのですが、標高が一番高いところなので、もの凄い勢いで多くの方が集中してどんどん車で逃げてくるという状況になりましたので、スタッフ全員でそういった方々のケアをすると。幸い、事務局の中で、宮城県沖地震に備えるということでの最低限の備蓄はしていましたので、備蓄品や自販機の飲み物、あと高架水槽が使える限りは、お手洗いの提供というお手伝を自発的にスタッフが夜中まで続けました。実は津波の襲来というのは、高台にいたので全く分かりませんでした。海の方から何の音も聞こえませんでした。ただ、市役所の職員の人がバイクで駆けつけてきて、下の方が大変になっているからこっちも凄いことになるぞ、と言い残してまた去っていったということがあり、それを受けて坂の下にある市役所にかけ下って行ったところ、自家発電で電気が点いていたのでテレビを見たら、閖上大橋が津波で襲われている瞬間を見て、これは大変なことになるぞと思いました。
夜に、市の記録では21時57分に、JX日鉱ホールディングスの仙台製油所で爆発炎上が起きます。15日の鎮火まで濛々と煙が上がるということですので、この写真がその状況ですね。高さとしては、多分1,000メートル以上の黒煙が上がっていて、45号線で走っていると福田町ぐらいから煙がずっと見えているという状況になっていました。
[佐藤さん(以下、佐)]これは黒煙を撮っているんですか?それとも駐車場を撮ってるんですか?
[工]見えにくいんですけど、実は正面の建物が多賀城市の上下水道部でして、下の方に給水に並んでいる方がいらっしゃいます。最長で5時間待ちくらいでした。給水車の台数も足りませんでしたので、この時には市内の花屋さんが真水タンクを積んだ車を提供してくださって、そのトラックと、あと市の元々持っていた貴重な給水車で給水をしているという状況でした。まず、たがサポがどういう状況にあるのかというのを端的に記録するために1枚撮った写真で、かつ、この黒煙が上がっているという状況がある意味ひとつ象徴的な光景になっていましたので、これは残しておかなければいけないかなということで、センターの3階の避難階段の所で撮影したものになっています。
[佐]これ、給水に並んでいる人たちも写っているんですね。建物の下か。
[工]下にいらっしゃるんです。この列がずっと左側に並んでいて、更に裏に回って1周して市役所の方まで並んでいると。先頭は右側です。右に建物、プレハブが見えますけど、そこが給水車の給水拠点になっていて、そこに皆さん目がけて5〜6時間並んでいらっしゃるという状況です。更に言うと、完全に2日目から電話もダウン、ガス水道も止まり、さらに停電して、都市ごと完全に孤立をしたという状況です。
■たがサポが手配した支援物資を市役所職員、自衛隊員総出で荷降ろし
[工]ネットも電話回線も全部ダウンをし、多賀城市というのが、後からNHKの方からお話を伺うと、完全に失われた都市の状態になってしまっていると。仙台市の隣だったのですが、石巻よりも状況が分からないということになっていましたので、私たちは被災状況をまとめて、直接NHKに持ち込むという手段に出ました。多賀城市は、行政改革を熱心に進めた結果、人員削減が極限までいっていた。6万人の都市で500人規模の職員、最高で3月11日のときには1万2,000人が38カ所の避難所にいる状況になっていますので、これをその人数でさばくというのは非常に困難な状況だったと思います。完全に戦闘状態で、自分の街の情報を発信するというところまで手が回る人が1人もいないという状況にありました。市職員ではありませんが、私たちの方で災害対策本部、あと避難所を回って被害状況をまとめて、夜中の3時だったと思いますが、NHKのデスクに直接持ち込むということをしました。それで多賀城もようやく翌日からニュースに上るようになって、避難所に物資が回るようになってきた。
それと、独自に私たちと関係のある東京の財団に連絡をして、10トントラック1台でいいから、とにかく多賀城市行きのトラックを回してほしいと。石巻まで行かなくていいから、途中、仙台港へ来たら降りてくれと、呼んだトラックが15日にようやく着いてくれて、これをみんなで荷降ろしをしているという状況です。これが民間の支援トラックの第1号ですね。
[佐]これが第1号の支援車。
[工]そうですね。これ以外に自衛隊はあったんですけど、民間で物資支援で来てくれた第1号がこれということです。3月11日から15日までの4日間の物資欠乏が相当激しくて、避難所によっては食事が板チョコ1枚という状況まで追い込まれていた状況でした。
[佐]それっていうのは、多賀城はこういう風になってるよ、という情報がいっていないからですか?さっきも仰った情報不足から来るものですか。
[工]はい。最初、名取市が津波に襲われている状況がNHKで一番最初に出ましたので、名取に支援のトラックだったり、物資が集中したということがあった。その次に石巻が大変だぞと、気仙沼が大変だぞということで、変な話なんですが、被災状況の営業合戦状態ですね。要するにうちは酷いぞということを外に伝えないと物が来ないという状況になりましたので、その壁を破るためには、もうこっちからマスコミに押しかけるしかないだろうと。それと我々がなんとか被災前から有していたネットワークで直接コントロールしてしまえ、ということでトラックに来てもらったという状況です。
■支援物資を各避難所毎に仕分ける
[佐]先ほどの写真の続きですね。
[工]届いた物を市役所職員と、自衛隊の皆さんで一斉に荷降ろしをしました。ここは多賀城市の市役所の北側にある、古い講堂なんですけども、そちらに物資ごとに全部ブルーシートの方に広げまして、仕分けをして、避難所にこれから持っていく直前の段階を撮った写真です。一応避難所と本部は無線でやり取りができていましたので、とにかく何でも、足りないものはあるんだけれども、優先順位が高い不足物資というものを早く送ってくれと言われ、なるべくそれに沿った形で迅速に持って行ったという状況があります。特に寒かったので、防寒着関係、あと、多賀城市の場合ですと、特に沿岸部、ヘリでピックアップされた、本当に着の身着のままの方がいらっしゃいましたので、持ってきていただいた防寒着類が非常に役に立った。あとオムツにしても、子供向け、大人向け、両方配慮して持ってきていただいたということがありましたので、大変助かったと思っています。
■国道45号仙台港北IC東側の状況
[工]国道45号の仙台港北インターチェンジで撮影した写真です。被災車両がかなりゴロゴロ転がっているんですけれども、これが実は多賀城市における津波被害の特殊性を物語っている写真だという風に思っています。
津波は、仙台港に来た時は約7メートル、市内に入って2〜4メートルという状況だったんですけれども、浸水面積がすごく広くて、16平方キロの小さな市の面積の3割が浸水しました。海から来た津波と、多賀城駅の前を流れている砂押川がさかのぼって堤防を突き破りまして、国道45号沿い、桜木地区、八幡地区は、川と海から津波の挟み撃ちに遭う状況になりました。港から街に来るまでにちょっと威力は弱まっていたんですけども、街の複雑なビルの間をぐるぐると津波が駆け巡ったため、車両の被災が非常に多かったです。特に国道45号と産業道路だけで354台が被災をし、多賀城市内全体では被災車両が実に5,556台。自動二輪含んでますけれども。私有地に停めてあった車もそうなんですが、当時大衡村の自動車関連工場が稼働を始めたばかりで、仙台港にあった輸出用の車がモータープールから全部流れてきて民家に突っ込んでくる。さらに沿岸の工場からは危険物質の入った、濃硫酸の入ったドラム缶が数百本、高圧のガスの詰まったボンベ千数百本が街中に濁流と一緒に流れ込んでくるという状況がありました。
都市型津波の被災状況ということなので、恐らく東京・大阪・名古屋の、東南海、南海トラフとか、関東大地震のような地震が起こると、こういう状況になるんだろうという風に思って撮ったものです。あと、ちょっと写っているんですが、自衛隊の救急車を見た時にかなりショックでした。本来なら自衛隊の撃たれた兵士や戦死者を運ぶ車両が日常の街の中を走り回っているというのが個人的には非常にショックな1枚でした。
■菓詩工房わたなべ
[工]ずっと被災前から東北の風景が好きで、趣味で写真を撮っていたということがあったんですが、被災した状況に関してカメラを向けるのが個人的にはできなくなりました。多賀城市の状況に関しては多賀城市役所の記録担当が動き始めたということと、マスコミも結構入ってくるようになったので、記録、街の状況に関しては彼らに任そうと思って、私は撮影するのをそれからは半年くらい止めました。外に発信する為に必要な写真というのは、市の施設ですのでプロのチームが撮ったものを仕事として使えばいいし、被災している状況をわざわざ我々が撮る必要はないという風に判断をしましたので、個人でそういったものにファインダー、レンズを向けるというのは止めました。ただ、半年くらい経ってからどうもマスコミの状況とかを見ていても、忘れ去られている色んな街の光景というのがあるだろうな、生活の中で記録しておかなければいけないもの、あるいは告発しなきゃいけないような光景というものっていうのが随分あるんじゃないかな、という風に思い始めて。特に、私が一時期サラリーマンをやっていた時に、南相馬、浪江の辺りは営業マンとして走っていたこともしましたので、まだ撮られていない光景などを自分なりに残しておきたいし、残さなきゃいけないなという風に思って撮りに行くようになりました。
これは今年の3月22日に南相馬市の小高区というところで撮ったものです。去年の4月25日に避難指示解除準備区域になりまして、昼間の立ち入りが可能になった場所です。『菓詩工房わたなべ』は相双地区、あと仙台からもお客さんが来るような大変有名なお菓子屋さんだったんですね。小高区は当然インフラが死んでいて営業ができない。その中にこういった、「必ず小高で復活します」という風に書かれた黒板があって、下にレンガに何が挟まっているのかと思ったら、「復活待ってます」とか、「必ず小高で会いましょう」とか、そういった通りがかりの人のメモがこの下にありました。こういう困難な状況の中でも必ず街への想いというものがやはり残されてる訳ですので、そういったものを拾っていきたいなと思ってシャッターを切った1枚です。
[佐]先ほど工藤さんが、自分で撮らなくても良くなったって思ってから半年経って、自分で別の所を撮る、自分でファインダーを別の所に向けるきっかけになったっていうのが、忘れられているような感じがした、マスコミの報道の仕方によって。それを自分の目で見て誰かに伝えなきゃという風に、逆にそこから思い始めて撮られたというのがこういう写真になるということですか?
[工]そうですね、忘れられているという実感はなかったんですが、見落としが多いということですね。実際の暮らしの中、あるいはそこに避難している人、被災者の人たちが本当は想っている、考えている、そういったものが映されているはずの景色があるんですが、そこにプロのカメラが向かなくなったんじゃないかな。これは何かそこの街に想いを持っている人、そこに住んでいた人が、自分で記録していかないと、今後そういったものが表に出なくなってくるんじゃないか。そういった所での自分なりのプロテストというか、シャッターを切るということでちょっと抗ってみようと、こういった撮影をまた始めたということです。
■坂元駅北側踏切跡
[工]ちょっとコントラストが強い写真になってしまったので見にくいんですが、これは常磐線の山元町の坂元駅から2つ上り方向に行ったところにある踏切の所で撮った撮影です。「開通105年 地盤は堅い 機関車70トン」という、ぎょっとするような立て看板が立っているんです。調べてみると、昔は蒸気機関車がここを走っていたんですね。恐らくその頃を知っているご高齢の方、あるいは、もしかしたら鉄道員だった方が、常磐線の復活というのを願ったのか、実はここだけじゃなくて他の踏切にも同じ看板が何本か立っていたんです。何もない、本当に一面荒れ地になってしまった山元の、海側の街の中に、何もない所に眠っていた記憶、眠っていた気持ち、抱えている気持ちというものが看板という形でふっと浮き上がってきたというところなんだと思った。これは、だから必ず撮っておこうという風に思って撮影した写真ですね。
[佐]ありがとうございます。私は、震災の中での生活ぶりの写真が重要であるという風にずっと思っていたところがあるんです。数字上の記録だったり被災状況の記録というものは、それは記録として残るんだと思うんですが、多分イメージとして伝わりやすく、感情を揺する、揺さぶる、その役割を持つのは記憶の方だなという風に思っている。この看板もそうなんですけども、例えば震災の中でどんな生活をしたのかという写真を、先ほども給水に並ぶだとか、または他の方が撮った写真にもガソリンに並ぶだとか、炊き出しにならぶ、沢山の並ぶ作業があったということも、被災県の人であればそれは当たり前のようにやってきたし分かることなんだけども、これ、いざ関東よりも以西に行ってしまうと、そんなことがあったんだ、という風に思われる。これはやっぱり津波の様子、または震災で倒れた様子しか見てないからなんだろうな、ということをつくづく感じて帰ってくるときがあるんです。そういう意味で、記憶というのをどう残していくのかというのが凄く重要だなというのを、今の話を聞いても考えた所です。
*この記事は、2013年6月1日にせんだいメディアテークの考えるテーブルで行われた『3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクト公開サロン「みつづける、あの日からの風景」』で、工藤寛之さんがお話された内容を元に作成しています。
当日の様子はこちらからご覧いただけます。
《考えるテーブル レポート》→http://table.smt.jp/?p=4361#report
【3.11定点観測写真アーカイブ・プロジェクトとは】
このアーカイブ・プロジェクトは、東日本大震災で被災した宮城県内各市町の震災直後の様子、および震災から定期的に定点観測し復旧・復興の様子を後世に残し伝えるために、市民の手で記録していくものです。これから市民のみなさまから記録者を募っていくとともに、その情報交換・活動の場を公開サロンとして定期的に行っていきます。これらの定点観測写真は、NPO法人20世紀アーカイブ仙台とせんだいメディアテーク「3がつ11にちをわすれないためにセンター」で記録・公開し、市民参加で震災を語り継ぐ記録としていきます。
NPO法人20世紀アーカイブ仙台
公式Web:http://www.20thcas.or.jp/
【考えるテーブルとは】
人が集い語り合いながら震災復興や地域社会、表現活動について考えていく場を「考えるテーブル」と題して、せんだいメディアテーク、7階スタジオに開きます。トークイベントや公開会議、市民団体の活動報告会など多様な催しを行っていきます。