3がつ11にちをわすれないためにセンターでは、「3月12日はじまりのごはん」(NPO法人20世紀アーカイブ仙台と協働)の写真パネルやコメントが、震災を学ぶための教材とならないかを模索してきました。そして、2015年11月30日に、仙台市立七郷中学校と協働し、全校生徒を対象に、各先生達に利用してもらう機会を得ました。今回は、その当日の様子を、NPO法人20世紀アーカイブ仙台の佐藤正実さんにレポートしてもらいます。
平成27年度学校防災の日④ 「考動議会」
100年後に語り継ぐあの日の記憶~「はじまりのごはん」を題材に~
NPO法人20世紀アーカイブ仙台 佐藤 正実
東日本大震災から3年が過ぎた2014年。普段の生活において震災風化が危惧され、仙台のまちなかで「震災体験を語りやすい場」をいかにつくるかを、3がつ11にちをわすれないためにセンター(せんだいメディアテーク)と模索する中で生まれたのが「3月12日はじまりのごはん」でした。
「3月12日はじまりのごはん」は、市民が写し撮った震災後の生活、中でも「食」にまつわる写真をセレクトし、コンビニや炊き出しに並ぶ様子などの写真を見ながら、震災後、初めて食べたのはいつ?何を?など、自分の体験談を付箋(ふせん)に書き出してもらう市民参加型のイベントです。大地震が発生し余震が頻発する中で初めて口にした食べ物、その時あなたは、どこで何をして、どう感じたのか……「食」を通じて、それぞれの生活、体験を拾い集める作業を、2014年にせんだいメディアテークとの協働事業として約1カ月半開催しました。その後、2015年3月に国連防災世界会議の時にも展示し、ここでも多くの付箋が寄せられました。
そして、その展示素材を震災学習として利活用し、2015年11月30日に仙台市立七郷中学校の生徒自らが取り組んだワークショップが「100年後に語り継ぐあの日の記憶~『はじまりのごはん』を題材に~」です。
七郷中学校では、“学年を超えて語り合う時間を通し、震災の記憶を風化させないように語り継ぐとともに、実場面に即した行動を自分たちで考え実践する力を養うこと”を目的とした学習の場を「考動議会」と名付け、これまで3回開催されてきました。今回は「3月12日はじまりのごはん」の写真を題材に、「震災の体験やその時の思いを語り合う」というワークショップを開催しました。
今年の「考動議会」で掲げた目標は下記の2点。
①震災の教訓は与えられるものではなく、自分たちで気付き、自らの言葉で伝えることが大切であること。
②さまざまな体験の共有を通して、語り継ぐべき教訓、情報、思い等に気付き、復興過程の記録は未来への学びの記録であることを知ること。
開催にあたっては、子どもたちに心の負担を負わせないことを第一とし、写真の選定からワークショップの進め方、付箋を整理する表の作製や見せ方など、先生たちと一緒にアイデアを出し合いながらプログラムを準備しました。
2015年11月30日「考動議会」当日。
「30~40年おきに来ると言われている宮城県沖地震ですが、例えば次に40年後に地震が起こったとして、皆さんは何歳でしょう?お父さんやお母さんになっているかもしれませんが、今日は震災を知らない未来のこどもたちに何を伝えるのかを考えてみたいと思います。」という先生の言葉から始まり、1~3年生縦割りのグループで、お互いの体験やその時の思いなどを語りあうワークショップがスタートしました。
1枚の写真に正しいキャプション(写真説明)をつける作業ではなく、自分の体験と摺り合わせて多くのキャプションを付け加える作業は、いつもの授業のように正しいひとつの解を求めるのではなく、むしろたくさんの間違った答えを用意するという真逆な作業。それでも、写真を囲み付箋紙に書き始めると、リーダーの3年生を中心にグループ全員が手際よくワークショップを進めていきました。
今までの「3月12日はじまりのごはん」と大きく異なるのは、最終的に100年後に語り継ぎたいこととは何なのか?をワークショップの着地点とした点。思ったことや体験談を話し終えたところで、各グループで一番忘れたくないこと、伝えなければいけないことを整理し、語り継ぎたいと思う付箋紙を1枚に絞り込んでもらいました。そもそも、「3月12日はじまりのごはん」は口にしにくかった個々の震災体験や記憶を付箋紙に書き込むことで可視化してきましたが、グループのメンバー間で共通の「100年後に語り継ぎたいこと」という答えを導き出す作業は、新たな活用の手法にも感じました。
「食」を通して体験を語るワークショップなので、食べ物のありがたさを語り継ぎたいというグループが多いことは予想できましたが、約半数の47%が「食べ物・飲料水」に関することで、次いで14%が「電気・ガス・灯り」、13%が「コンビニ・スーパー・小売店・買い物」の順でした。
興味をひいたのは、選ばれた付箋紙は震災の中の生活を具体に記されたものが多く、これは自分の体験との相似性、あるいは置かれた状況が自分事として捉えることができるコメントだったためかもしれません。例えば、「外で食べる温かい食べ物はありがたかったです(特にとん汁)」、「(ヤマザワ)コンビニならんでたら(頭)カラフルなおばちゃんに話しかけられた!つらい中でのコミュニケーション。しんさいはつらいけど人との交流ができた!」、「いつもは活気ある仙台駅周辺もこの時はシャッター街になっていて怖いくらい静かだった。」など。これらは、もしかすると震災を体験していない非被災地の人達に対しても、有効な語り継ぎの体験談となっていくことでしょう。
また、最後のグループ発表においても「~しなければならない」という教訓めいた言葉は少なく、震災体験者としての発言らしい、あの時の心情をそのまま言葉にして伝える生徒が多かったことも注目される点でした。仮にテーマが“東日本大震災の教訓を未来へ伝える”というものであったなら、どんな答えを要求されているのかという余計なバイアスがかかってしまい、避難の仕方や備蓄の方法などの良く言われる教訓を答えていたかもしれません。
震災から4年9カ月が経過し、発災当時、小学校2〜4年生だった児童は、現在中学生となり、震災を自分の言葉で語れる最後の年代になりました。グループ発表で「震災時の辛さや経験に加え、日常のありがたさを伝えたい」と口々に言う彼ら。あの日を語りあいさまざまな記憶が誘発されたことで、震災の教訓に自ら気付き、自分の言葉で伝えることができた、そんなワークショップになったのではないかと思います。
宮城県沖地震は過去400年で11回、平均37年間隔で起きています。これをひと世代に必ず一度起きる自然災害として捉え、風化を防ぐための日常の学ぶ場にすべきかもしれません。その時、語りやすい震災のテーマのひとつとして、参加者同士の壁を作らない「食」は、有効な方法であると改めて実感することができた七郷中学校のワークショップでした。
①各教室1年~3年生が縦割りになったグループ毎に着席。「3月12日はじまりのごはん」で使用した72枚の写真の中から事前にセレクトした付箋付き写真パネルが1枚ずつ、合計5〜6枚各テーブルに置かれる。
②同じ写真でも、見る人によって様々な見方や体験談を想起することができる一例として、先生が写真の撮影日や場所、「3月12日はじまりのごはん」で寄せられた付箋のコメントを読み上げる。
③各テーブルの3年生がリーダー役となりワークショップを進行する。テーブル毎にそれぞれ写真や付箋に書かれたコメントを読み取る。
④写真や付箋の内容から読み取ったこと、または震災後の生活で思い出したことなどを手持ちの付箋に自由に書く。
(ひとつの体験や想いを1枚ずつの付箋に記入し、複数は書き込まない。なるべく「誰が」「どこで」については様子が分かるように書く)
⑤順番に1人ずつ自己紹介をしながら、自分が書いた付箋の内容を発表する。
⑥付箋を貼った写真パネルをテーブルにおいたまま、全員がそれぞれ隣のテーブルに移動する。
⑦テーブルに着席し、もともとパネルに貼られていた付箋と新たに貼られた前のグループのコメント付箋の内容を読みこみ、さらに思い出したことを手持ちの付箋に書きこむ。書いた内容を発表する。
⑧最初のパネルのテーブル席に戻り、増えている付箋を読む。次に付箋を整理するための「整理パネル」を準備する。
⑨みんなが貼ったたくさんの付箋を
(1)「写真に写っていること」
(2)「写っていることにまつわる思い出」
(3)「写っていることがきっかけで思い出したこと」
に分類して整理パネルに貼りこむ。
(2)、(3)に分類された付箋の中から、「一番忘れたくないこと」、「伝えなければいけないこと」をみんなで話し合い、一番上の段に貼る。
⑩選んだ一番上の付箋を読み、「改めて思ったこと」、「補足したいこと」、「発展して考えたこと」などを、新しい付箋に書きこむ。書いた付箋を貼りながら内容について説明し合う。
⑪各グループで選んだ「一番上の付箋」と全員で書き足した付箋を、「100年後に語り継ぎたいこと」としてまとめ、各グループの代表者が発表する。
最後に、振り返り用紙に
(1)100年後に残したい思い(最後の付箋+周辺の付箋)
(2)今日の学習を振り返って思うこと
を記入。
◆パネルNo.1のグループによるまとめ
・家の中は本だなやタンスがたおれて入っていたものがぐちゃぐちゃになったりしていて被害が大きかったです。
・震災当日から翌日にかけて見なれた景色が傾いて見えた。
・テレビもつかず、インターネットも利用できず、新聞もとっていなかったので、情報や今何がおきているのかが知りたかった。車のテレビをつけてニュースを見ていた。
・どこに行っても食べ物不足!
・電話もつながらないし、情報を得るのがとても大変だった。
・(ヤマザワ)コンビニならんでたら(頭)カラフルなおばちゃんに話しかけられた!つらい中でのコミュニケーション。しんさいはつらいけど人との交流ができた!ギョニソしかかってない!
・食べ物の大事さや、人とのつながりの大切さを知った。
・自転車の人を見て、ふだん自動車を運転している人が、ガソリンがもったいないから、自転車を使っていたので、いつもよりたくさん自転車が走っていたのを思い出した。
・小学校の配給(?)でぎょうれつにならんだのを思い出しました。
・何もないなかでも、冷静に行動し、共に生きようとする人の姿が多く見られ、自分も頑張ろうという気持ちになった。
・いつもは活気ある仙台駅周辺もこの時はシャッター街になっていて怖いくらい静かだった。
・あの時は大変だったな。
・震災から1日経った3/12は学校で生活していて3家族か4家族くらいで同じ教室にいた。私は1週間くらい学校にいました。同じ教室の人と協力して生活しました。
きっかけになったパネル
◆パネルNo.17のグループによるまとめ
・食べ物に感謝!!
・外で食べる温かい食べ物はありがたかったです(特にとん汁)。配給時
・何か食べ物があるだけでもありがたいですが、このような温かい物は、寒い中、自分の体をあたためてくれるので、とても助かりました。
・食べ物のありがたみがわかった。
・自分も何日かたってから小学校に配給をもらいにいき、初めて避難所の大変さを実感しました。でもみんな協力して運えいしていた。
・学校に避難して、あまり食事にありつけなかった所に牛丼をすき家の方からいただいて、泣きながら食べたのを覚えています。
・震災では食料が不足し、大変な思いをしたが、食料の支給を通して、人とのつながりはとてもありがたいと思った。誕生日が台無しになった友人もいたが、気を落とすことはない。震災は悪いことばかりではなかったと思うぞよ。byS
・マンションの人たちでストーブをエントランスに持ってきて、その火でつめたくなったごはんなどを焼いて食べてた記憶があります。人とのつながりに感謝しました。
・あたたかい食べ物が食べられなくてさみしいような気持ちになりました。
・今はとくに「食事があたりまえ」と思うようになっているが、当時は店も閉まっていたり、食べ物を入手するのが困難だったりしたので、「食事のありがたみ」をよく知れた。
・何でも節約
・お腹を空かせた人がいっぱいいたんだと思う。
・食べれない日が続くと、いつも食べていたものがすごくおいしく感じる。
・自衛隊の体育館に避難してた時にカレーをもらった。
きっかけになったパネル
◆パネルNo.28のグループによるまとめ
・ごはんが食べれなかったときは、改めてごはんのありがたさが分かった。ラップがとても便利でお皿がよごれない。
・七郷中学校の校門前でわかめごはんとクラッカーを配っていました。あのとき食べたお米の味は一生忘れません!!
・ラップはすごく便利なものだなぁと感じた。家電がなく、最低限の生活から本当にそのもの(ラップ)の便利さ、ありがたさに気付いた。
・ごはんが食べられない日が続き、食べたいという日が増えていった中で、ごはんを食べられた日はすごく嬉しくて、ごはんを食べられる日は当たり前ではないと感じた。
・親の知り合いの方から食べ物をもらった。そのとき、支え合うというのはこういうことなんだなと思った。
・震災後初めて食べたお米がすごくおいしかったのを思い出した。
・水道が止まったときに食器が洗えないので、ラップは常に準備しておきたいと思った。
・アルファー米のおにぎりを小学校に行った時にもらったが、とてもおいしくなかった。その時あるものを食べるしかないが、おいしさも食事に大切だと改めて感じた。
・ごはんを食べたのは震災から3週間後。
・食べる事は生きるために大切なこと!普段から食事に対する感謝の気持ちを忘れない!
・水が貴重だったから、洗い物を出さないために、茶わんにラップをかぶせている。
・近所の方々と食品買うの協力してた!
・2011.3.11の前に「学校キャンプ」で(確か)テーマは“防災”で学びながら生活した。「アルファー米」でカレーを食べたがとても美味しかったのと、こういったキャンプで学んだ事が、震災が起こったときに生きる事、その大切さを知った。
・ガスも電気も水道も止まっていたので、これから生きていけるか心配になった。
きっかけになったパネル
◆パネルNo.39のグループによるまとめ
・小学校の教室は、電気がつかなくて夜は理科室から持ってきたろうそくと皿で明るくしてた。
・電気が通っておらずとても怖かった。ろうそくの明かりだけでもとても安心しました。
・家族といると安心できた。地震対策をしようという安全意識が高まった。
・震災のとき電気がつかず懐中電灯で部屋をてらしていたのを思い出した。ケータイの充電も切れ、テレビが見れなくてとてもひまだった。
・3月11日は、親せきで集まりながら、ラジオを聞いて津波の状況などを知り、とてもこわくなった。
・とても大きいろうそくをテーブルの中央に置いて明かりにしていた。運よく、ろうそくはたくさんあったのでこまらなかったが、トイレに行くときもろうそくを持っていかなくてはならなかったので大変だった。
・震災当日は電気もつかず、余震も続く中、父が出張から帰ってこれず、母と2人で不安な夜を過ごしたことを思い出しました。
・電気がつかなかったのでかい中電灯やランタンなどを使った。
・組み立て式のベッドやランタンなどキャンプ用品が役に立つ。ロウソクの火は温かく感じる。
・いつもの生活がどれだけめぐまれていたのかが実感できた。
・ロウソクを準備していなくてとても不便だった。ロウソクは普段使わない物だけど、こういう状況の時に役立つなと思いました。
・ろうそく1本だけで暗そうだけど明かりがついていてうれしそう。→安心するから。1本でもあたたかい。
・日頃からろうそくや懐中電灯、非常食などを用意しておくことが大切だと感じました。
・電気もガスも水道も通らなくて大変だった。家にろうそくがたくさんあったので、とても助かった。
きっかけになったパネル
◆パネルNo.55のグループによるまとめ
・避難所生活中に買い物に行き、みそ汁を買ったのを思いだした。電気がついていなくて品物はほとんどなかった。
・私はスーパーやコンビニなどで買い物は特にしませんでした。でも祖父母のお店のお客さんが食べ物をおすそわけしてくれたりして、ありがたかったです。
・コンビニには、水ぐらいしか売っていなく、たくさんのスーパーやコンビニで、ガスコンロのガスなど買い集めていた。どんなに便利なコンビニでも、災害がおきたときにはないんだと思い、日頃から準備しようと思った。
・震災の後、スーパーやコンビニなどで、お人様何個までというはりがみを見て、大変なじょうきょうなんだなということを改めて実感していました。
・たくさん並んだのに商品がとても少なく「お1人様○個まで」がたくさんの商品につけられていたことを思い出した。
・あたりまえにあった食べ物が貴重に感じました。
・いつもお店が開いていることや、物が買えることは当たり前ではない。日頃から保存食をたくわえておいて、災害時に食料がないという事態にならないようにするべきだ。
・コンビニの営業のしかた(24時間開店とか)で助かった人がたくさんいたことと、閉まってしまったときどうするか(備蓄)、どんなときでもちゃんと並ぶことの大切さ。
・震災時はお店も閉まってしまい、食料が手に入らず、倉庫に入れていたかんづめやカップラーメンなどを食べていました。お湯はレンガをつみ、おちばを燃やして、わかしました。
・自分達で災害に備えておくことと、いざというときまわりの人のために働きかけてくれる人への感謝の気持ちが大切!!
・開店中のお店には、たくさん人がいて、どこもならんでいたり、数に平等な限りがあった。
・マイバッグのように、何でも節約していた。
・私は避難所である学校に知らない人とも同じ教室で生活したが、その時のご飯はボランティアとして活動して下さった方達によって作られた白米です。頑張って自分も疲れている中作ってくれた人に今更とても感謝しています。
・食べものを買いに行った時前の人で売り切れてしまったとき、食べ物をゆずってくれた。
きっかけになったパネル
◆パネルNo.67のグループによるまとめ
・学校で水をもらった。家の水がでなかった。みんな水を家にもってかえるのがたいへんそう。
きっかけになったパネル