宮城県石巻市出身で仙台市宮城野区に住んでいた私は、東日本大震災によって自分の部屋と実家の両方が被災した。
仙台のアパートは、仙台港に近かったものの東部道路よりも内陸側だったため津波の被害は免れたが、地震による建物の被害がひどく「大規模半壊」を受け住むことができなくなった。
石巻の実家もまた、石巻工業港のすぐ北側にあったため、津波による大きな被害を受けた。
これは、2011年3月中旬から数カ月の間に携帯電話で撮影した、私のふたつの住まいの被災記録である。
*写真は当時の携帯電話で撮影されたため、分かりづらいところもありますがご理解ください。
仙台市宮城野区栄町のアパート をみる
■実家前の道路
3月11日から約1カ月後。まだ片付ける状況にはなく、とりあえず、家屋の中で被災物になってしまった家財を外に出し、処分を待っているという状態であった。
石巻工業港の後背地にあたる実家のあった石巻市大街道4丁目には、港の各施設からの流出物や荷揚げされたものが大量に流され、道端のあちこちにその漂着物や車両が積まれていた。
宮城県石巻市大街道南4丁目
(左)西に向かって撮影/(中)東に向かって撮影/(右)屋根の高さに車が乗り上げている
■実家の門のあたり
数カ月経っても実家の周囲の片付けが終わることはなかった。
工業港からは様々な漂着物が流されてきたが、そのなかには、簡易物置の軒の高さとほぼ同じ直径の巨大なタイヤも多数見られた。また、港には肥料や飼料を扱う工場やサイロ等も多数あり、その流出物も実家のあたりまで漂着したため、周囲の臭気は酷いものであった。
(左)漂着タイヤを実家の門塀に立てかけて固定する
(右)家屋や車両と比べるとタイヤの大きさがよくわかる
■実家の外観
実家の敷地内には、母屋と車庫兼用の物置が建っていた。物置は損壊が激しく、2階部分が1階の車庫スペースに落下。実家のあったこの場所も現在は更地になっている。
(左)正面入口からみた母屋/(中)右奥は母屋、左手が車庫兼用の物置/(右)車庫部分内部からみた様子
■室内に残る津波の痕
家の中に入ると、天井近くまで津波が来た痕跡がそこここに残っていた。
(左)玄関の照明器具より上まで水の痕が残る
(中)キッチンの天井近く残っていた水の痕
(右)津波で流されてきた何かが衝突して壁が壊れていた
■家の中の様子
家具調度品などを運び出し、しばらくした後の家の中の様子。
床は腐って落ちてしまったため、家の中じゅうに板を渡して歩けるようにしていた。
(左)この縁側の突き当たりの窓は流され、ただの開口部になっていた
(右)漂流物による傷跡が残る柱
■家具の被害
実家のタンスや食器棚など家具調度品の大部分は、家屋に造り付けのものであった。
片付けようにも、津波の水分を吸って膨張した家具は、扉も引き出しも全く開けられなくなってしまい、壊して解体する以外に中身を取り出す術はなかった。
(左)引き出しを取り出したあとの奥の床上には泥が堆積して固まっていた
(中)中身を取り出した後の食器棚/(右)書棚の扉を壊して中身を取り出しているところ
■開花
2011年春|庭に水仙が咲く
■自宅の周囲
その後、実家とその両隣、さらに南北にあった民家も解体され、このあたりは更地となった。更地エリアから道一本隔てたところに残っている家屋もあるが、このエリア一帯が広域都市計画道路になる可能性があり、改修しても住み続けることはできないらしい。